改めて

改めて文字にして読み返すと、自分自身の全てを、自分自身が否定することは、当然良いことではない。しかしこう考える人は、現代では珍しくもないだろう。だが「生きる」ということの根底は、生命を繋いでいくことだ。人間として命を授かり、そして現代の特徴を踏まえたとしても、いやいつの時代に生まれたとしても、「自分という存在を確固たるものとし、後世に残していく」ことが最も優先される事項である。自身を否定することは、自分自身の生命を批判すること、つまり遺伝的関係にあるすべての人への否定とも捉えられるのである。それは、どう解釈しても良いことではない。

そんなことは、たらたらと書かなくても、本来は本能的にわかっているはずなのだ。私にももちろん、無意識のうちに、本能的に生を謳歌している。すべての生命に平等に訪れる死は、確かにいつ来るかはわからない。しかし、自ら自分の生に終焉をもたらす必要は、どんな理由があっても許されることはない。例えそれが死刑囚であろうとも、死刑という判決を受ける責任があるのであれば、その制度に最後まで従うべきであって、そうなれば自分自身で自身の生を終わらせることではない。罪を、制度により償うという理由が、他からの審判によるものだからだ。

それがわかっていても、私は生命を有する存在でありながら、その基本的理念に絶望しているのだ。こう考える原因は間違いなく病という背景もあるだろう。しかし前述したとおり、仮にこれが「甘え」だとしたら、私は完全に一寸先は谷底と知っていながら、無謀な突進を余儀なくされている感覚に支配されるのだ。誰かに宣言されずとも、そう考えただけで、まさに絶望するのである。